「食と健康」・「私の持つ最大の疑問と懸念」
4月15日、たまたま偶然に下記の番組を見ました。すぐに録画をしました。
15分でした。
私が日本人の健康(病気)について、一番危惧している“現実”だからです。
ガン闘病生活を綴った文章はいくつか出ています。
しかし、納得のいく、あるいは示唆する、乳ガン予防の話が出て来ないからです。
食品関係のそれが。
そもそも、ガンが社会問題になって40年、アトピー性皮膚炎も35年にはなる。
◆ポイント【なぜ、その原因が語られないのか??取り分け、食品において】
◇ヒント「原子力ムラではないが、商業の構造上の栄養学ムラがある」のではないか。
◇ヒント「障害児の出生数の多さについても同じく語られない・・」
「食と健康」・「乳ガン」
◆ポイント「ガンは老人病です、若い人がなるはずがない」
◇ヒント「日本人のガンの死亡曲線と老人化の曲線が合わない。明らかにガンの
死亡曲線の方が上昇率が高い??」
◆ポイント「乳ガンは女性40歳をすぎてからの病気です」
◇ヒント「女性ホルモンが出過ぎると、実はガンになりやすい。原因は不明」
◇ヒント「1970年から、乳ガン率の上昇が始まり、若い人の乳ガンもこの時から
上昇を続けている」
◇ヒント「環境ホルモンは女性ホルモンとして作用する」
◇ヒント「外国産食材は1975年に食品の3割を超えた。今は6割」
その番組のおおよその録画からの“書き出し”です。
◆ポイント「母のわが子への愛の“凄さ”」
◇ヒント「乳ガン予防にはみそ汁、毎日朝晩食べると閉経前は4割減、
閉経後は7割減」
【ママの形見はキッズキッチン、はなちゃんのみそ汁】(※ 題は宮崎の作)
※ 2012年4月15日・TV放映から
母は娘に何を伝えようとしたのか
はなちゃんのみそ汁にその真実の物語が綴られています。
福岡県福岡市 安武家 午前6時 台所で鰹節を削っているのは安武
はなちゃん(9歳)今はお父さんと二人暮らし。
問い)何でつくるようになったの
はな「お母さんに作り方を教えてもらって、1人でできるようになって
パパたちにおいしいっていってもらえるから」
お母さんが教えてくれた
はなちゃんのお母さん千恵さんは4年前にガンでなくなりました。
なぜ千恵さんは幼いはなちゃんにみそ汁作りを教えたのでしょうか?
千恵さんにガンが見つかったのは25歳(2000年)の時
当時彼女には婚約者がいました。後に夫となる信吾さんです。
パパの信吾「彼女からの電話で「乳がんかもしれない」と言ってきたんですよね。
もうその時は、僕は結婚しょうとプロポーズをしていましたんで
一緒に闘っていかなければいけない、病気も含めて丸ごと千恵の
ことが好きだった、だと思うんですね」
二人の未来の為に、千恵さんは左の胸の乳房を全摘出する大手術を受けました。
2000年7月左乳房全摘出手術。術後、ある医師からある事実を告げられます。
医師『結婚しても子供はあきらめなさい』
抗がん剤の影響で卵巣がほとんど機能しない状態だったので(妊娠は)
厳しいだろうということは分かっていた、それも分かった上での結婚でした
2001年8月5日結婚。そして、1年がたったある日、奇跡が起こりました。
千恵さんのお腹に小さな命が宿ったのです。体重3380g、元気な女の子でした、
名前は「はな」。2003年2月20日長女誕生
花のように人の心を癒し愛される女性になってほしい
親子三人の幸せな日々、それも長くは続きませんでした・・
怖れていたことが起きたのです。ガンの再発。千恵さんの肺にガンの転移が見つかり
ました。
信吾「死が頭をよぎりました」
問い)千恵さんはどうしていましたか
信吾「普通にしてましたね、取り乱すことなく。座右の銘は『なんとかなる』ですから」
今、自分に何ができるのか?
千恵さんはブログを立ち上げました。タイトルは
【早寝早起き玄米生活~がんとムスメと、時々ダンナ~】 2006年12月9日
自らの死と向き合う千恵さんの決意が綴られていました。
「私は、がんになった後に、ムスメを授かりました。だから、この子を残して、
死ななければなりません。だとすると、心残りがないように、死ななければ
なりません。いつ別れが訪れるのか分からない。私はこの子に何をしてあげられるのか」
声楽家だった千恵さんは抗がん剤の副作用と闘いながら命の大切さを歌う
コンサート活動も続けました。
―― 私がいなくなってもこの子なら大丈夫、そうなるために今できることは?
「今日は娘の誕生日、まだ早いけど、4歳になった今年は、料理を少しずつ
教えていこうと思う。プレゼントはエプロン。
時間が許す限り、彼女が運命を切り開く手伝いはできる限りやってあげたいと思う」
母としてできること、千恵さんは4歳になるはなちゃんを台所に立たせました。
信吾「食べることは生きることだからと思います」
ごはんを作って食べる、それが生きる力の根本、だから幼い娘であっても迷わず
包丁を握らせました。
はな「パパは入れないんだけども私はお味噌のカスまで入れる。お米とかおみそ
とかにも命があるから」
―― 私たちは命をいただいて生きている。それを娘に料理をつうじて学ばせた
かったのです。ムスメに出会えたことは、私がこの世にいたという証だ。
自分より大事な存在に出会えたことは、私の人生の宝。
私の人生の目的は、これだったのかな。
そして、別れの時が訪れました。料理を習い始めて1年半。はなちゃん5歳の夏。
2008年7月永眠(33歳)
はな「何点」
信吾「99点」
はな「ハハハッ(笑)なんで~!?」
信吾「ホントは100点なんだけど」
はな「ふ~ん」
はな「お風呂掃除もお母さんに(教えてもらった)。お母さん、ちょっと教え方厳しい
んだけど、きびしいほうがわかりやすい」
信吾「音楽が好きな所とか、歌うことが好きだったりとか、そっくりですよ」
問い)将来の夢見たことある
はな「お母さんみたいに料理も作れて、歌も歌える人。ハナミズキを
最後まで歌いたい。お母さんが大好きな歌だから」
二人で過ごした月日はわずか五年でした。
でも千恵さんは許された時間の中で全身全霊を捧げ、はなちゃんに伝えました。
生きていくための大切な力を。
問い)あなたは愛する人に何を遺せますか?
分かれてから4年、はなちゃんは天国のママへ一通の手紙を書きました
「ママへ、はなはね、ママに伝えたいことがあるんだよ。それはね。お弁当が
全部作れるようになったこと。ビックリしたでしょう。オカズはバアバから
作り方を教えてもらった卵焼きとパパから教えてもらったピーマンと豚肉の
塩麹炒め。ごはんにはゆかりのフリカケをかけたよ。今度作る時は、後片づけ
も全部するってパパと約束したんだよ。お風呂の掃除と洗濯は少しサボって
いるので、4年生になったらがんばる。やくそくするから天国で見ててね。
人の悪口は言わない。笑顔をわすれない。全部、ママが教えてくれたこと。
むずかしいな、いやだな、こまったなと思っても、なんとかなるもんね。
『きりかえ、きりかえ』って、ママがよく言っていたもんね。はな、もう泣か
ないよ。がんばるよ。 安武はな」